ミレニアム通信過去情報 1377376

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聖書の世界観以外に社会を正常に保てない

1:tomi :

2011/09/15 (Thu) 23:16:56

世界観には3つの要素がある。

1.存在論。
2.認識論。
3.倫理。

これらは互いに有機的に関連しあっている。だから、存在論における変化は、他の2つの要素に影響を与える。

聖書の存在論は、「世界は三位一体の神の創造による」である。聖書の認識論は「神の啓示である聖書は知識の土台、最高権威である」である。そして、聖書の倫理は「聖書に記された神の法が倫理の土台である」である。

聖書の世界観は、このように一貫している。神が世界を創造されたという存在論を基本として認識論と倫理が導き出される。

しかし、ヒューマニズムの世界観は、一貫していない。「世界は神による創造ではなく、進化による」という存在論を持つ。「知識は人間の経験から帰納法的に得られる」という認識論である。そして、「人間が決定したものが倫理である」という倫理観を持つ。

1.
「世界は人間が創造したものではない」という存在論を持つならば、「人間は知識を得ることができ」るという認識論はあきらめなければならない。

なぜならば、知識は経験的だけではなく、超自然的なものでもあるからだ。

帰納法的認識論の欠陥は、「経験した部分しか知ることができない」というところにある。もちろん、科学において、A点とB点とC点のデータが得られた場合、その3つを関数で結ぶことは可能であるが、しかし、厳密に知識を経験に基づかせる認識論では、このような因果関係を見つける行為は違法である。A点とB点とC点のデータはA点とB点とC点のデータ以外の何者でもない。

その3つを線で結んで関数化する行為にお墨付きを与えるのは、人間同士の「約束」でしかない。

その約束に基づいて得られた法則は、たとえ10000回の試行でその正しさが確認されたとしても、1億回目でどうかはわからない。あくまでも法則とは、人間の約束事でしかない。だから、人間の知識は常に反証を許すべきであるということになる。

だから、知識はどこまでいっても暫定的であり、絶対確実な知識は存在しないということになる。

2.
世界が人間によって成立したのではないので、倫理を人間が決定できるとすることにいかなる合理性もない。「殺人してはならない」「偽証してはならない」など基本的な倫理すらも、相対的であり、社会や環境が変われば、変化する。

裁判所の決定で死刑判決を受けた殺人犯は、たまたま「殺人が罪と定義された社会」に生まれた不運な人に過ぎないということになる。

こうなると、社会は、確信を持って死刑を実行できなくなる。人々の精神は非常に不安定で、安心を得られない。

結論として、われわれは、聖書以外に首尾一貫した世界観を持つことはできない。ヒューマニズムを信じることによって、確信を奪われ、常に人の評価や決定に怯える人間が増え、不健康な社会になる。

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