ミレニアム通信過去情報 1377384

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神道における贖罪のシステムとキリスト教のそれの比較

1:tomi :

2011/09/20 (Tue) 23:25:51


神道において、罪は、天津罪と国津罪に分かれる。

(1)
天津罪とは、畔放・溝埋・樋放・頻蒔・串刺・生剥・逆剥・屎戸の罪(*)で、まとめると、耕作妨害罪・稲田横領罪・神聖な所汚す罪、或いは殺人罪を意味する。これが、天に対する罪である理由:「人間の命も生命の根源である食物も、元を正せば何れも祖神から賜ったものです。人間だからといって、これを勝手に殺し、奪い、汚すことは出来ない。その殺生与奪はただ祖神の意思で、その命ずるままに従う以外にありません。生死の根本は天つ祖神から与えられたものですから、これを犯す罪が天津罪と呼ばれる」(『神道のいろは』)という。
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水田耕作を妨害すること、殺人罪は、神が与えた命の根源を侵す行為であるから、神との関係で罪とみなされる。

(2)
国津罪とは、生膚断・死膚断・白人・胡久美・己が母犯せる罪・己が子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪・畜(けもの)犯せる罪・昆虫(はうむし)の災・高津神の災・高津鳥の災・畜仆(けものたう)し・蠱物為(まじおのせ)る罪である(**)。

これは、「この地上人間界の不倫の姿、血を見るような姿、混乱の姿、人間としてしてはならない事をする罪」であり、人間との関係での罪とみなされる。

(3)
さて、この2種類の罪は、十戒の前半の5戒が神に対する罪で、後半の5戒が人間に対する罪であるのと似ている。モーセの律法も、対神関係の戒めと対人関係の戒めの2種類に大きく分類できる。

さらに、興味深いのは、これらの罪に対する解決法である。

神道では、「この「罪」に対する代償として贖い物を差し出すという「祓い」が義務つけられてい」る(同上)。

お祓いとは、実は、贖いなのである。

これは、まさにモーセ律法の「犠牲の小羊」と似ている。モーセ律法において、罪に対する解決は、犠牲の小羊をささげて罪を贖うことによって達成される。この犠牲の小羊は、キリストによる十字架の贖いによって成就された。

興味深いのは、お祓いは、神主が榊を振ることによって実現するが、モーセ律法では、贖いは、ヒソプの枝を左右に振ることによって成就する。

「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」(詩編51・7)

なぜ贖いが成就するかというと、ヒソプの枝は出エジプトの過ぎ越しの時に、イスラエル人の家の鴨居と門の柱とに、小羊の血をその枝に付けて塗ったことから、贖罪の枝と呼ぶことができるからである。

(4)
神社本庁調査部の解釈によれば、神道のシステムにおいて、天照大神が岩戸に隠れた理由は、スサノオの罪を贖うためである。

「(天照大神の)この神隠れは、国津神スサノオノミコトの罪を、天照大神が徹頭徹尾自らあがなわれ、身を隠されたことを意味する。天照大神はスサノオノミコトの罪を責められず、その改悛(かいしゅん)を最後まで期待されるとともに、常に「むつまじき心もちて相許したもう」という大きな自愛と包容力とをもって、その罪を許し、あがなわれたと書紀に見えている。
 この神隠れした大神の再出現を祈るのが、天の岩戸の祭りであって、その祈りの果てに、天照大神は再び復活され、世にいう天岩戸開きとなる。それ以後、天照大神は永遠に生き神として、輝かしい御光を私共の上に投げかけておられるのである。
天照大神は又スサノオノミコトの罪をあがなうために、一度は神隠れされるが、再び復活されて、人々に「温かい手をさしのべられ、人々の罪を許す神」として今に至って、私共の上に輝きわたられているというのが、民族古典の示すところである。」(「大祓詞の解釈と信仰」神社本庁調査部長 岡田米夫著神社新報社発行昭和37年7月1日初版発行平成13年2月1日22版発行)

贖罪のために神が「お隠れになる(つまり、死ぬ)」というシステムは、まったく聖書におけるキリストの贖罪のそれと同じである。

(5)
このように、神道における「罪と贖罪(祓い)、そして、それを成就する天照大神」のシステムは、「モーセ律法と贖罪(動物犠牲)、そして、それを成就するキリスト」のそれときわめて類似している。

神道の基本に、聖書があったと類推することは荒唐無稽な試みとは言えまい。

(*)
「畔放(あはなち)とは、田圃の畔(あぜ)を取りこわすのですから、稲田の水は外へ流れ出てしまって、耕作を困らせる事になります。溝埋これは、畔と畔との間の溝を埋めるのですから、田圃に水が入らなくなるので耕作を困らせます。樋放(ひはなち)は、桶を掛けて、山の谷から田に水を引いて来るのを取り放つのですから、耕作を不能ならしめます。以上は何れも稲田と水との関係について妨害する事で、いわゆる耕作妨害罪です。次に頻蒔(しきまき)とは、一度稲種を蒔いた他人の田圃の上に、再び種を蒔く事を言い、串刺とは、他人の田圃の境界に、境界を示す竹を立てることで、共に他人の耕作田を横領する事でありまして、田圃横領罪を言うのです。
これらがなぜ天津罪になるかといえば、稲は人の生きて行く命の根源なのです。コメとは小芽、イネは生根、ヨネは世根だといえます。米により生かされて行く生命の根を絶つ。生きて行く根、即ちこの生命は神から頂いたものです。稲は青人草(人間の事)の食いて行くべきものなりとして、祖神(親神)より頂いたものなのです。それが採れなくなることは、生命の根を絶つ所から、天津罪になるのです。
また生剥(いきはぎ)、逆剥(さかはぎ)とは、これまたスサノオノミコトが天の斑駒(むらごま)の膚をさいて天の機織(はたおり)屋の棟をうかがって投げ入れた。その結果、織姫を殺すことになったとあるように、動物を殺し、また人を殺す罪をいいます。屎戸(くそへ)は、天照大御神は新嘗きこしめされる御祭の御殿に、スサノオノミコトが屎をまきちらした罪で、神聖な所を汚す罪だといえます。」(『神道のいろは』)
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(**)
「生膚断(いきはだたち)・死膚断(しにはだたち)は人間の生きている皮膚及び死者の皮膚を断つこと。白人は、血族結婚等で白子が産まれること。胡久美(こくみ)は、コブ等の出来ること。己が母犯せる罪・己が子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪等は、何れも家族生活をする上から見て、人間として犯してはいけない罪をいいます。畜犯せる罪は、人間が畜を犯すというような畜生のような行為をすること。昆虫の災は蛇や百足など地上を這う動物によって害を受ける事。高津神の災は雷などによって、人畜に与える被害。高津鳥の災は鷹や鷲等に人畜をさらわれるような被害。畜仆しは、ケモノを呪い殺す事。蠱物為る罪とは、おまじないをして、正しいものを混乱させる罪をいいます。」(『神道のいろは』)
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