ミレニアム通信過去情報 1372645

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機械論的世界観は世界をバラバラにする

1:tomi :

2011/09/28 (Wed) 12:05:34


遺体収容に際して、西洋人はものとして扱う傾向があると聞いた。

ある人は、西洋はキリスト教だからそうなのだろう、日本は仏教徒で遺体を仏として扱うから違う、というが、まったくの間違い。

西洋人は、デカルト以来、機械論者であり、ものを物体として見る傾向がある。

デカルト以前は、西洋ではスコラ学が支配的であった。アリストテレスの世界観が支配していたから、一種のアニミズムであった。

物の内部に何かの意志が宿っているから物は運動するとか。

完全に物をそういったもの(形相・アニマ)から切り離して、物体の運動を純粋に物理学的法則によって考えようとしたのが、機械論である。

「天候や地形、生命などの諸々の自然現象を、心や精神や意志、霊魂などの概念を用いずに、その部分或いは要素の決定論的な因果関係のみ、特に古典力学的な因果連鎖のみで、解釈でき全体の振る舞いも予測できる、とする立場」(Wikipedia-機械論)

このような立場は、一面で正しいが、別の面で重大な欠陥がある。

科学において、物をアニマから切り離すのは重要である。

事実、物体の運動は物理法則にのっとって進む。

しかし、「常に」ではない。

デカルト以降、西洋人が物体の運動を完全に割り切って考えるようになったことによって科学が発達したのは事実だ。

しかし、「常に」物体は物理法則にのっとって進むと考えた結果、神を世界から追い出した。

これは、きわめて重大な失敗である。

聖書の世界観は、「神は物体を創造され、そして、今も維持しておられる」というものである。

「創造と摂理」がワンセットで成立している。

理神論は、創造だけで摂理がない。

「神は最初の一撃を与え、その後は物理法則だけで天体は回っている」と考える。

しかし、神は、その後も、物理法則を管理しておられる。

物理法則は、「神のしもべ」である。

法則は、神の下にあって、神の意志を代行するために設定されたものであって、神と独立して存在するものではない。

だから、聖書には無数の奇跡の話がある。

「預言者イザヤが主に祈ると、主はアハズの日時計におりた日時計の影を十度あとに戻された。」(2列王20・11)

これは、神が地球の自転に影響を及ぼされたことを意味する。

逆回転である。

地球の回転を逆にした場合、慣性の法則によって、地上のすべての物体にはものすごい力が働き、破壊され、液体はそのまま進むので、全世界の陸地は海の水でおおわれるだろう。

これを神はすべてをコントロールして正常な状態を維持しながら10度逆回転されたのである。

奇跡とは、「世界が摂理によって保持されている」ということの宣言である。

物理法則、化学法則、あらゆる法則は、神の主権のもとにあって世界を統治するための規則であるから、神は自由にそれを変えることができる。

だから、現代人の常識となっている「科学法則の自律」は幻想である。

仮に科学法則が自律しているとすれば、祈りは無意味である。

常に「強い者が勝ち、弱い者は負ける」という弱肉強食の原理が働くならば、正義に何の意味があるのだろうか。

裁判所に、正義を重んじる義務があることがどうしてわかるのだろうか。

科学法則の自律を主張すると、「夢も希望もなくなる」のである。

「科学法則は絶対である」「奇跡などあるはずがない」と主張することは、「人間に自由はない」と主張することに等しい。

だから、デカルト以降、人類は絶望を選択したのだ。

「科学法則至上主義」は、自殺思想である。

西洋人は、このような味もそっけもない思想に汚染されたため、極端な個人主義になった。

互いの連携を裏付ける何もない。

恋愛や結婚、宗教心すら、生理学や心理学、物理学で分析できるとすら言うから、すべてがバラバラになるのだ。

このような世界観から、「尊属殺人を特別視してはならない」というような法律観が生まれる。

親族に対する犯罪と、他人に対する犯罪の区別がつかなくなる。

機械論的世界観は、欠陥思想である。

われわれは、聖書の契約思想に帰るべきだ。

人間も世界も、すべて創造という紐帯によって結ばれている。

宇宙は神の創造によるから、人格的である。

人間のとった行動は、神の善悪の基準によって評価され、賞罰が下る。

人間と人間は、互いに祖先を同じくするため、同族である。

ただし、クリスチャンは、祖先をアダムからキリストに移したため、別の種族である。

旧人類はアダムにおいて罪を犯して、相続権を失ったが、新人類はキリストにおいて罪の支払いをし、しかも、律法をすべて守ったため、永遠の命を入手した。

だから、クリスチャンは、永遠の命と財産を相続することができる。

このような契約的連帯の思想がなければ、社会はバラバラになり、統率を取ることができなくなる。

日本には、もともとキリスト教があったので、契約的な人間観や社会観が根付いている。

世界はデカルトの騙しから解放されて、聖書の世界観に立ち返る必要がある。

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