ミレニアム通信過去情報 1343909

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天皇家のルーツ

1:tomi :

2011/10/23 (Sun) 03:40:20


允恭(443年即位461年に歿)の陵墓と言われる誉田山古墳の陪塚丸山古墳から出土した2号鞍と、最近中国遼寧省喇嘛洞ⅡM101号墓で出土した鮮卑族の鞍とが、細部に至るまで一致した。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/2003.12nara/12.28kawati3.htm

これで、天皇家が鮮卑族と関係があることがはっきりしたわけだ。

鮮卑族とはどのような民族なのか。

「紀元前3世紀から6世紀にかけて中国北部に存在した遊牧騎馬民族。五胡十六国時代,南北朝時代には南下して中国に北魏などの王朝を建てた」とWikipedia「鮮卑」にある。

さらに、「漢代の初め、匈奴の冒頓単于が東胡を滅ぼした際、その生き残りが烏丸山と鮮卑山に逃れ、それぞれが烏丸と鮮卑になった。鮮卑はしばらく匈奴のもとにいたが、匈奴が南北に分かれその力が衰えてくると、勢力を盛り返すようになった」と。

鮮卑は東胡の生き残り。ということは、東胡を調べればいい。

東胡とは、「東胡(とうこ)は、中国の春秋戦国時代から秦代の間に内モンゴル東部に住んでいた遊牧民族」(Wikipedia「東胡」)である。

秦の時代のモンゴル系遊牧民である。

扶余族は、鮮卑に吸収された可能性が高い。
http://www26.atwiki.jp/crescent_castle/?cmd=word&word=%E9%AE%AE%E5%8D%91&type=normal&page=%E6%89%B6%E4%BD%99

騎馬遊牧民は、つねに集合と離散をくり返しており、異族どうしが入り混じるのもふつうであった。彼らに対して「民族の線引き」を正確にすることは不可能だという。
http://yumiki.cocolog-nifty.com/nautica/2009/07/post-c567.html

鮮卑や扶余は、スキタイ化を遂げる。

「東方では、テュルク族、モンゴル族、ツングース族らが、次々に「スキタイ化」を遂げたよう」で、「ツングース系の鮮卑族・濊狛族・扶余族らも、つよくその影響を受けてい」る。(同上)

スキタイ族は、「西方ではとりわけギリシアと縁が深く、ギリシア人(ヘレネー)の支配民族となった黒海起源のドーリス族は、スキタイ系であろうと察せられる。ローマ建国期に侵入したサビニ族、フランスのブルターニュへ侵入したアラン族も、またそうで」あるという。(同上)

ここに、遊牧民族の活動を通じて、西方文化が東方文化と交流していたことが分かる。

スキタイ族は、ヒッタイトの末裔であり、ヒッタイト人エサウの妻を通じてイスラエルとスキタイは密接な関係があった。
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/582

これで、はっきりとしたつながりが見えた。

すなわち、

ヒッタイト→イスラエル→スキタイ→扶余→鮮卑→天皇家

天皇家にユダヤ性があってもなんら不思議ではない。
2: :

2019/04/24 (Wed) 17:17:57

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