ミレニアム通信過去情報 1343897

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神を恐れることは知恵のはじめである

1:tomi :

2011/11/08 (Tue) 19:30:14


TVの高校講座の歴史を見た。

啓蒙主義について、それは「人間の理性の働きによって、無知や迷信をなくせるとする考え」だという。

聖書は、「神を恐れることは、知恵のはじめ」と述べ、人間の理性の働きでは無知や迷信から解放されないとする。

聖書では、知恵を得るためには、まず神を恐れなければならない。

啓蒙主義では、神を恐れる必要はない。人間の理性を働かせ、科学によって人間は知識を得られるとする。

聖書では、「そのような立場では、人間は知恵を得られず、愚かなままだ」という。

今の教育を担っている人々はノンクリスチャンであり、啓蒙主義者であるから、教師は聖書を否定し、科学だけでよいと説明する。

だからわれわれは、学校教育を受けただけでは愚か者である。

一生を「自らを光を受けた者」と誤解して、最後に滅びに至る。

たとえ愚かさに気づいたとしても、死の直前である。

ずっと騙されたまま一生を送る。

クリスチャンが聖書から説明しても、受け入れない。

死んでから「騙された!こんなところに来てしまった!」と後悔する。

「神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。」(ルカ13・28)

知恵を得るためにはへりくだる必要がある。

傲慢なままではだめだ。

神を恐れ、御言葉を受け入れること。

われわれの認識は「神の追認識」でなければならない。

神が物事をこのように認識しておられる、とわかったら、そのとおりに認識することである。

たとえば、御言葉において「同性愛は悪である」と記されているならば、「わかりました。同性愛は悪ですね」と認め、それ以降、同性愛者を罪人として見る。

しかし、啓蒙主義を学んだ現代人は、神と独立してものを思考し、聖書と異なる価値観を持つから、「同性愛も一つの愛の形である」と考える傾向がある。

「あの人たちはあれが好きなのだから、同性と幸せに暮らしたらいいんじゃないか?」と考える。

クリスチャンは、「恐ろしいことだ。ソドムとゴモラの刑罰を受けるだろう」と考える。

しかし、世俗の学校教育を通じて啓蒙主義を学んだクリスチャンの子弟はこの点であいまいだから、世俗と同じように同性愛に許容的になる。

ここで、クリスチャンは相続に失敗する。

クリスチャンの子弟に正しい価値観を与えなかったために、せっかくの伝道活動も途切れる。

ものすごい巨額のお金をかけて宣教師が日本にやってきて、魂を獲得しても、教育が悪いために、それが子弟に相続されない。

そこで、日本の宣教は振り出しに戻る。

アメリカも、教育が悪いので、ノンクリスチャンに占領された。

イギリスも、ドイツも、フランスも、スイスも、同じである。

人間の正しい認識とは、「神の追認識」である。

神を恐れて、神がご覧になるように世界を見ること、これ以外に神の国を拡大することは不可能である。

相続に失敗した人は大きな叱責を受ける。

報いにあずかることはできない。

人生の審判のとき、自分は火の中をくぐって救われるかもしれないが、しかし、報いはない。

「各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」(1コリント3・13-15)
3: :

2019/04/24 (Wed) 17:09:03

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2:tomi :

2011/11/08 (Tue) 19:57:09

日本人は偶像礼拝しやすい

日本人の宗教への加入の仕方は独特である。

ある人の教えに心酔し、「全部ついていきます」みたいになる。

そして、他の人々は、その人が〇〇先生の教えを信じているとなると、〇〇教になったと考える。

だから、〇〇先生が語ったことに私が「正しいと思う」というと、tomiは〇〇の工作員だとか、〇〇の一派だという認識をされる。

日本人の精神世界の独特なところだろう。

自分は自分なのだ。

われわれは、一人ひとり考え方が違う。

誰かの意見を受け入れたからといって、その先生と運命を共にしたことにはならない。

最近も、私から離れた人が聖書まで捨ててしまったと聞いてびっくりした。

私と聖書は別物である。

私の意見と聖書は必ずしも一致しないかもしれない。

そういうものとして私の意見を取り入れずに、「私も聖書も全部一緒」のような考え方をすると、考え方に進歩がない。

われわれにとって聖書は絶対である。

その聖書の絶対な教えにできるだけ近づくために、教師や牧師がいる。

それらの人々を踏み台にして、真理の階段をのぼっていけばいいのだ。

全部捨てたら元も子もない。

人間は人間であり、神ではない。

正しい部分もあれば、間違っている部分もある。

自分が正しい判断を下せるかにかかっている。

そのような判断すらもその教師に委ねるならば、偶像礼拝である。

私は常に「〇〇先生のここはいいけど、ここはおかしい」と自分で判断を下すようにしてきた。

だが、このことを他の教会員にいうと「え~、そんなこといったら、私は何を信じたらよいのですか?」と反応された。

どうして牧師の一部を否定したことがそんなに衝撃なのだろうか。

全部身をゆだねているからである。

全的信頼は、神にだけである。

人間に対してやると、偶像礼拝である。

それは、〇〇教であって、キリスト教ではない。

問題は、孤独への恐れである。

目に見えるもの、人に頼りたいのである。

孤独に耐えて、一人で生きて行くことを選択しない限り、偶像礼拝者である。

注意:ただし、なんでもそうだが、初心者は、上級者のいうことを聞いたほうがいい。独立することと、生意気になることは別である。牧師や教師の学識や知識を可能な限り尊重すべきである。

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