ミレニアム通信過去情報
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われわれの体は、昇天時に瞬時に復活体に代わる
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1:tomi
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2011/11/29 (Tue) 08:09:03
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プレ・ミレとポスト・ミレではいろいろ違いがあるが、死についての教えも大きな違いがある。
プレ・ミレは、再臨までの間、クリスチャンの魂は天にあってまだ復活していないと考える。
「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(1テサロニケ4・14~17)
プレ・ミレは、この出来事、つまり、携挙はまだ成就しておらず、これは、終末に成就すると考える。
まだよみがえりは起きていないので、われわれが今死ぬと、魂だけになって、天において再臨を待つと考える。
ポスト・ミレは、そう考えない。
このパウロの記事は、誰に対して記されたのか。もちろん、テサロニケ教会の人々である。しかも、紀元1世紀の。
亡くなったクリスチャンに対して嘆き悲しんでいる彼らに対する慰めのためにパウロが記したものだ。
そのパウロがどうしてここで、2000年後のわれわれの時代について語るだろうか。
パウロは、空間と時間を特定して話をしているのだ。パウロは、「主が再び来られるときまで生き残っている私たち」と述べている。この記事は、テサロニケ教会の人々が生き残っているうちに起きると明言した。
となれば、この箇所は、パウロとテサロニケの教会の人々が体験するであろう事柄について記されていると考える以外にはない。
つまり、この携挙と言われるものは紀元一世紀に成就した。
からだの復活は紀元一世紀に起こった。携挙も起こった。
「イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られる」ことも紀元一世紀に起きた。
「キリストにある死者が、まず初めによみがえ」ることも紀元一世紀に起きた。
「生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会う」ことも紀元一世紀に起きた。
紀元一世紀に体のよみがえりがあったことは、次の箇所から明らかである。
「墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた」(マタイ27・52~53)。
イエスの復活に続いてクリスチャンの復活は起きた。すでに2000年前に。
紀元一世紀において、「キリストにある死者が、まず初めによみがえ」ったのであれば、どうして、われわれが死んだ後に魂だけで天にいなければならないのであろうか。
天において、体を持っているクリスチャンの間に、われわれだけが魂で存在することになるのか。
ありえない。
われわれも体を持つのである。
われわれがこの肉体を離れるときに、瞬時に「御霊の体」が与えられる。
それは、永遠不滅の体である。
もしわれわれが天において体を持たないのであれば、われわれは、クリスチャンの交わりから締め出されることになる。
地上においてクリスチャンは、「主の体に与るバプテスマ」を受け「主の体に与る聖餐」に参加する。
われわれの体は、もはやわれわれのものではなく、主の体であると言われている。
「あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。」(1コリント6・15)
紀元一世紀に復活したクリスチャンも体を持っている。
だから、地上のクリスチャンと紀元一世紀に復活したクリスチャンも体を持ち、復活した主と一体である。
しかし、プレ・ミレによれば、紀元一世紀以降に昇天したクリスチャンだけは体を持たないということなので、主の体に与れず、それゆえ交わりから締め出されることになる。
こんなことがあるだろうか。
主はおひとり。契約も一つ。信仰も一つ。体も一つ。
救われたわれわれが、契約から締め出されるなどということがあるだろうか。
われわれだけが体を持たないなどということはありえない。
だから、われわれがこの肉体を離れると同時にわれわれは体を持つ。
そして、イエスと天上のクリスチャンと地上のクリスチャンの宴会であるところの、聖餐に参加する。
クリスチャンは死なないのである。
それは、文字通り死なない。
われわれの体は、昇天時に瞬時に復活体に代わる。