ミレニアム通信過去情報
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新使徒的宗教改革は再建主義と無関係である
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1:tomi
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2012/04/08 (Sun) 00:02:41
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新使徒的宗教改革という運動がある。
ピーター・ワグナーがまとめて書いているので要約したものを以下掲載する。
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『新使徒的宗教改革(NAR)はカルトではない』という文章をC・ピーター・ワグナーが書いているのでご紹介する。
現在、イスラム教よりも速く成長している運動である。サハラ以南のアフリカ、ラテンアメリカ、アジアのかなりの部分に広まっている。
NARは、プロテスタント宗教改革以来最も急進的な変化を引き起こしている。教理的変化ではない。宗教改革の主要な教えに従っている。聖書の権威、信仰義認、万人祭司を信じる。
しかし、以下の点で従来の伝統的なプロテスタントとは異なる。
教会生活の質、教会統治、礼拝、祈りの神学、宣教の目標、未来に対する楽観主義など。
NARは、組織ではない。指導者もいない。ピーター・ワグナーが「創始者」と呼ばれてきたが、事実ではない。ワグナーは、運動を観察し、それを命名したので「知的ゴッドファーザー」と呼ばれているにすぎない。
調査を通じて1993年に実態が明らかになったときに、ワグナーは、フラー神学校の教授であった。
NARのルーツは、1900年の「アフリカ独立教会運動」、1976年からの「中国家の教会運動」、1970年代からの「米国独立カリスマ運動」、同時期に始まった「ラテンアメリカ草の根教会運動」にまでさかのぼる。
「使徒的統治」は、もっとも大きな変化だろう。
パウロの言葉を文字通り取らねばならない。
「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」(エペソ4・11-12)
この賜物の中で、「使徒」と「預言者」だけが今日無視されている。しかし、パウロはさらに次のように言う。
「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです」(1コリント12・28)
ここにヒエラルキー(上下関係)はない。使徒が第一であるのは、召された順番という意味である。
「自称」使徒はいない。すべての使徒は、神の賜物であり、神に任命される。さらに、本物の使徒は、同僚のクリスチャンによって認識されるものであり、他の尊敬され、資格のある指導者によって任命されるものである。
「統治主義」。主の祈りに「御国が来ますように。御心が天で行われるように地上でも行われますように」とある。天の世界の特徴が、地上におけるわれわれの社会の基礎に組み込まれるべくクリスチャンは働かねばならない。天では、不正も貧困も病気もない。正義と平和と繁栄がある。腐敗、犯罪、みじめさ、人種差別などはない。こういう世界を地上に持ち込まねばならない。
神はアダムに対して「地を従えよ」(創世記1・28)と言われた。アダムとエバを創始者とし、全人類は、創造世界を支配しなければならなかった。しかし、サタンがアダムの支配を奪って「この世の支配者」(ヨハネ14・30)になった。
イエスが来られたときに、神の国がやってきた。イエスは、御国建設の心を持つ人々がサタンの王国を押しとどめ、地上に御国の平和と繁栄を築き上げねばならない。このことをわれわれは、「統治主義」と呼ぶ。
「神裁政治」。神裁政治の意味は、通常「国が教会の権威を受けた代表者もしくはその機能的宗教的同等者によって統治されること」である。NARの誰に聞いても、この考えを拒絶する。コンスタンチヌス帝の実験や、今日の抑圧的なイスラム政府のやっていることを想起するとそう結論せざるを得ない。統治を達成する方法は、「アメリカのタリバン」になることではなく、むしろ、次の7つの山のすべてにおいて御国建設の意思を持つ人々が活躍することによる。宗教、家族、教育、政府、メディア、芸術、娯楽、ビジネス。社会のすべての領域において、御国建設の意思を持つ人々が影響力を行使して、神の国の祝福と繁栄をいきわたらせることが神裁政治である。
聖書外啓示。神が直接われわれに啓示されることはないと考える人々がいる。「神が伝えることを望んでおられることは、すべて聖書において啓示されている」と。しかし、これは、正しくない。なぜならば聖書において「聖書は66巻しかない」とはどこにおいても証言されていないからだ。
どの書を含め、どの書を排除すべきかを、神は数百年かけて教会に示された。しかし、カトリックとプロテスタントでは、聖書の書の数が違う。
さらに、私は「祈りは双方向のコミュニケーションである。われわれは神の御声を聞くことができる。神は新しいことを預言者たちに示される」と信じる。この新しい神の啓示に関する一つの大きな規則は、「示されたことは、聖書に記されたことと矛盾しない」ということである。ただし、補足はあるかもしれない。
「超自然的なしるしと不思議」。これを唱えると、異端と見られるのだがなぜだろうか。イエスが弟子たちを使わされたときに、常に病人を癒し、悪魔を追い出せと命令された。ある批評家は、NARはあまりにもサタンや悪霊を強調しすぎるという。これは単なる個人的な意見である。
私が読んだ著者の幾人かは、NARを理解できないためにフラストレーションを抱えていた。リーダーも、リーダーシップを発揮しているグループもない。ニュースレターもない。年会もない。教理の発表もないし、倫理的規則もない。伝統的な教派を扱うのとまったく異なるアプローチをしなければならない。この理由は、教派が法的構造であるのに対して、NARは関係的構造だからである。みなが、使徒や使徒たちとつながっている。
このつながりは、自発的である。その背後にいかなる法的なつながりもない。使徒たちは互いに競い合っているのではない。自分にとってベストを追求するのではなく、自分につながっている人々のためにベストを尽くす。自分にスポットライトが当たれば、それを受け入れるが、それを求めはしない。
運動の中心にあるのは「御国が来ますように、御心が天で行われるように地上でも行われますように」との相互的願いである。
http://www.charismanews.com/opinion/31851-the-new-apostolic-reformation-is-not-a-cult
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(1)
あるサイトでは、再建主義がこの亜流であると書いてあったが、再建主義はまったく関係がない。
再建主義の開始は、ラッシュドゥーニーの活動とともにあるため、1960年代であり、70~90年代にはじまったNARよりも早い。
統治主義は明らかに、再建主義の影響である。
(2)
使徒職が、現代にもあると考えると異端に陥りやすい。
使徒職は、12弟子たち及びその弟子とパウロだけに与えられたものである。
基準は、「イエスの行状を目撃した人々であるかどうか」である。
なぜならば、旧約聖書に、「証人は直接の目撃者でなければならない」との規定があるからだ。
聖書の選択が使徒の手によるものであるかどうかにかかっていたのは、「目撃者の証言」であるかどうかが重要だからだ。
正典に選択されたものは、「直接の目撃者」である彼らによって記された。だから、使徒職を現代にもあると考えると、「新しい聖書」が出てくる恐れが十分にある。
非常に危険な運動である。
(3)
「神裁政治」とは、「神の法による支配」である。「次の7つの山のすべてにおいて御国建設の意思を持つ人々が活躍することによる。宗教、家族、教育、政府、メディア、芸術、娯楽、ビジネス」とあるが、重要なのは、「御国建設の意思を持つ人々が活躍する」ことだけではなく、「彼らが神の法にしたがって行動するかどうか」にある。
神の法を基準とせず、使徒なる人々による「自然理性」によって地上統治が進むならば、必ず逸脱が起こる。聖書を基準としない運動は、始める前から失敗している。
(4)
「この理由は、教派が法的構造であるのに対して、NARは関係的構造だからである。みなが、使徒や使徒たちとつながっている」とあるが、使徒や使徒たちとのつながりが神の法よりも強調されるならば、いわゆるカルト化は避けられない。
正統的な信仰とは、厳密に聖書に基づくものであって、人間につながることを基準としない。
まとめ:
以上、これは再建主義とはまったく異なる運動である。再建主義は、聖書を前提とし、それを唯一の基準とする。人間とのつながりに大きな比重を置かない。まして、使徒なる人間を特別な存在として立ててそれに権威を与えるような運動は新たなるローマ・カトリックになる可能性が十分にある。
人間を理性中心に走るがゆえに、ヴァン・ティル以前のキリスト教の未熟な姿に返ることであり、ドーイウェールトや初期のエドワード・J・カーネルの誤謬を繰り返し、彼らの追従者たちが失敗した、人間教化、ヒューマニズム化は避けられないだろう。
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2019/04/24 (Wed) 15:37:47
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