ミレニアム通信過去情報 1359152

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使徒職は現代には存在しない

1:tomi :

2012/04/14 (Sat) 08:43:49


使徒職は、現代には存在しない。なぜならば、聖書において、その務めは、イエスの時代に限定されていると記されているからだ。

「『ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。』そこで、彼らは、バルサバと呼ばれ別名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立てた。そして、こう祈った。『すべての人の心を知っておられる主よ。この務めと使徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。』そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた」(使徒1・21-26)

ここで、使徒職の地位を継がせるための条件が挙げられている。

(1)「主イエスが私たちといっしょに生活された間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者」

(2)「復活の証人」。

(1)
「主イエスが私たちといっしょに生活された間」とは、もちろん、イエスの公生涯の間である。時代が特定されている。

「いつも私たちと行動をともにした者」における「私たち」とは、11人の弟子たちである。

13節に、「この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった」とある。

なぜ使徒が11人ではだめかというと、使徒とは、新しいイスラエル、つまり教会の創始者でなければならなかったからである。

イスラエルは、12部族があった。だから、12人必要なのだ。(*)

この12人を核として、教会が始まった。

マッテヤを選出した後に、教会が形成されたことを示すペンテコステの記事が続いている。

「そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた。五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」(使徒1・26、2・1-4)(**)

(2)
使徒は、「復活の証人」でなければならなかった。つまり、復活を目撃していなければならなかった。

このことから、使徒が21世紀の現代に存在しないことがわかる。

(まとめ)

使徒職とは、教会を創生するための職務であり、一代限りのものである。

教会を創生するためには、11弟子といつも行動をともにし、復活を目撃しなければならなかった。なぜならば、旧約聖書にあるように証言が正しいためには、証人は直接目撃しなければならないと規定があったからだ。

教会の土台とは、この12使徒たちの「復活の証言」である聖書である。だから、使徒(及び使徒の管理のもとにあった記者)以外のものが聖書を書くことはできない。


(*)
新約における教会は、新しいイスラエルである。

「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」(ガラテヤ6・15-16)

神のイスラエルとは、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではなく」、「大事なのは新しい創造」であるという基準にしたがって進む人々である。

つまり、民族を超えて、「新しい創造」という実質を重視する人々こそが、神のイスラエルである。

(**)
ここから異言とは、「民族・言語を超越した『超民族的経綸』の開始」を示していることがわかる。

古いイスラエルが民族的であったのと対照的に、新しいイスラエルである教会は超民族的である。

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