ミレニアム通信過去情報
1359152
過去の情報を掲示します。
本ミニストリに対して問答無用に反対の立場を取る人々の閲覧を禁止します。このHPはそのような人に向けて書かれたものではありません。個人攻撃をするつもりはいっさいありません。もっぱら霊的な利益を受けようとする心の柔軟な人々のために公開されている私的スペースです。
皆様のサポートを感謝いたします。
http://www.path.ne.jp/~millnm/support2.htm
メルマガ
http://groups.yahoo.co.jp/group/millnm/post
戻る
わいせつな書き込みを禁止します。「また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。」
宣伝禁止!!(礼儀をわきまえろ)
使徒職は現代には存在しない
-
1:tomi
:
2012/04/14 (Sat) 08:43:49
-
使徒職は、現代には存在しない。なぜならば、聖書において、その務めは、イエスの時代に限定されていると記されているからだ。
「『ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。』そこで、彼らは、バルサバと呼ばれ別名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立てた。そして、こう祈った。『すべての人の心を知っておられる主よ。この務めと使徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。』そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた」(使徒1・21-26)
ここで、使徒職の地位を継がせるための条件が挙げられている。
(1)「主イエスが私たちといっしょに生活された間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者」
(2)「復活の証人」。
(1)
「主イエスが私たちといっしょに生活された間」とは、もちろん、イエスの公生涯の間である。時代が特定されている。
「いつも私たちと行動をともにした者」における「私たち」とは、11人の弟子たちである。
13節に、「この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった」とある。
なぜ使徒が11人ではだめかというと、使徒とは、新しいイスラエル、つまり教会の創始者でなければならなかったからである。
イスラエルは、12部族があった。だから、12人必要なのだ。(*)
この12人を核として、教会が始まった。
マッテヤを選出した後に、教会が形成されたことを示すペンテコステの記事が続いている。
「そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた。五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」(使徒1・26、2・1-4)(**)
(2)
使徒は、「復活の証人」でなければならなかった。つまり、復活を目撃していなければならなかった。
このことから、使徒が21世紀の現代に存在しないことがわかる。
(まとめ)
使徒職とは、教会を創生するための職務であり、一代限りのものである。
教会を創生するためには、11弟子といつも行動をともにし、復活を目撃しなければならなかった。なぜならば、旧約聖書にあるように証言が正しいためには、証人は直接目撃しなければならないと規定があったからだ。
教会の土台とは、この12使徒たちの「復活の証言」である聖書である。だから、使徒(及び使徒の管理のもとにあった記者)以外のものが聖書を書くことはできない。
(*)
新約における教会は、新しいイスラエルである。
「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」(ガラテヤ6・15-16)
神のイスラエルとは、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではなく」、「大事なのは新しい創造」であるという基準にしたがって進む人々である。
つまり、民族を超えて、「新しい創造」という実質を重視する人々こそが、神のイスラエルである。
(**)
ここから異言とは、「民族・言語を超越した『超民族的経綸』の開始」を示していることがわかる。
古いイスラエルが民族的であったのと対照的に、新しいイスラエルである教会は超民族的である。