ミレニアム通信過去情報 1358517

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われわれは絶対に墓に入らない

1:tomi :

2012/05/08 (Tue) 22:53:22


(1)

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています
秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
・・・

これは、「千の風になって」という曲の歌詞である。

キリスト教の背景がないならば、実にむなしい歌だ。

復活の客観的根拠がなければ、「私のお墓の前で 泣かないでください。そこに私はいません」と言われても、空元気にしか聞こえない。

「千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています」

「愛する人が千の風になっていること」が遺族にとって慰めになるだろうか。

私の親族が風になったり雪になったり、鳥になっても私は嬉しくない。

(2)
クリスチャンは、「私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません」と唯一堂々と宣言できる人々である。

なぜならば、クリスチャンは死なないから。

クリスチャンの代わりにキリストが死んでくださり、墓を不要にしてくれたから。

そして、キリストが永遠の命を獲得してくださり、信じるすべての人々にそれを与えてくださったから。

クリスチャンは墓を建てるべきではない。

墓を建てて、その中に納まるなどと考えてはならない。

(記念碑ならいい。)

われわれは、この肉体を脱ぎ捨てて、即座に新しい体を与えられるのである。

なぜか。

イエスは、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません」 (ヨハネ8・51)と宣言されたからだ。

(3)
すでに亡くなったクリスチャンは、今、体を持っている。

もし体がなければ、霊だけということになる。

そうしたら、どうしてキリストの聖餐にあずかることができるのだろうか。

復活のキリストは、弟子たちといっしょに食卓につかれ、魚を食された。

もしクリスチャンが亡くなったあとで、霊になるならば、われわれ地上のクリスチャンとキリストとキリストの時代に復活した旧約の聖徒たちが聖餐の食卓にあずかり契約的一致を確認している間、クリスチャンの霊はそれを横から眺めているということになるのだ。

紀元70年以降、現代までの無数のクリスチャンたちは、仲間外れになっていると。

こんなのでどうして「クリスチャンの契約的一致」の教理が成立するだろうか。

(4)
キリストが復活され、その後約40年たった紀元70年に正式に王座につかれたときに、携挙が起こった。

キリストは、天から降りてこられ、正式に黄泉にいた旧約の聖徒たちをひきつれて、彼らを復活させ、パラダイスに連れていかれた。

当時生きていたクリスチャンは、その後に復活し、パラダイスに上った。

(5)
キリストが十字架につかれ、復活されたときに、旧約の聖徒の一部も復活して、人々の間に現れたとあるから、旧約の聖徒の復活には2種類あるということになる。

1.紀元33年頃のキリストの復活とともに復活した人々。
「また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた」(マタイ27・52-53)

2.紀元70年の携挙の際に復活した人々。
「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです」(1テサロニケ4・14)

(6)
テサロニケの手紙の人々をはじめとする当時生きていたクリスチャンも、紀元70年の際に復活した。

「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません」(1テサロニケ4・15)

つまり、旧約の聖徒が先だ。

次に当時のクリスチャンが復活する。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(1テサロニケ4・16-17)

(7)
さて、携挙が起きた後に、すべてのクリスチャンがいなくなってしまったら、福音伝道はどうなってしまうだろう。

私は、使徒たちに対して「すべての国民を弟子とせよ」との大宣教命令が与えられた以上、地上に残って福音を伝えた人々がいたと考える。

すなわち、紀元70年に携挙され、生きたまま復活し、パラダイスに上った人々だけではなく、福音伝道と地上のエデンの園化のために地上に残った人々もいたと。

それらの人々、及び、それ以降のクリスチャンたちは、肉体を離れるときに、携挙―つまり、復活してパラダイスに上ること―が起こる。

(8)
携挙が未来に起きると考えるプレ・ミレの解釈の難点は、「あなたがたは旧約の聖徒の後に携挙して復活する」との、テサロニケの人々に与えたパウロの約束は成就しなかった、ということになるという点にある。

そして、その後の教会は、成就しなかった偽預言を含む手紙を正典の中に組み込んだということになるので間違いである。

(9)
以上、総合して考えると、われわれは、契約の中にとどまる限りにおいて、絶対に体を失うことはない。

ただ、別の体に「変わる」と考えるべきだ。

その体は朽ちることのないもの。

「死者は朽ちないものによみがえり、私たちは『変えられる』のです」(1コリント15・52)

われわれが墓に入ることは絶対にない。
2: :

2019/04/24 (Wed) 15:25:26

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