ミレニアム通信過去情報
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クリスチャンにとっての成功とはこの世のそれとはまったく違う
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1:tomi
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2012/02/08 (Wed) 11:32:38
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信仰とは、目の前にある事業が成功するか失敗するかに関して確信を持つためではない。
たとえば、自分が始めた事業が成功することを信じられないならば不信仰だとは言えない。
なぜならば、神の御心は結果が出るまで分からないから。
信仰とは、聖書に約束された事柄が実現することを信じることであって、目の前にある一つ一つのことについてすべてうまくいくことを確信することではない。
たとえば、私は大学受験の結果を信じて受験したが失敗した。
「なんだ、信仰なんて関係ない。なるようにしかならない。」と考えたものだが、後で考えると、あれが最善だったと分かる。
個別の事について、自分が望んだ結果が得られるかどうかはわからないのだ。
確実に信じることができるのは、「神は最善を用意してくださる」ということと「自分にとって不利益なことが起こったとしても、それは必ず利益に変わる」ということである。
この2つについてわれわれは聖書において保証がある。
しかし、自分が始めたビジネスが成功するかどうかはわからない。
失敗することが御心かもしれない。
それは、神の深い御心において、自分にとって失敗が必要な場合は失敗する。
「やることなすことすべて成功することを信じられないのは不信仰だ」という判断は間違っている。
本当の信仰とは、「やることなすことすべて利益に変わる」と信じることだ。
たとえば、自分が30歳で死ぬかもしれない。長生きすることを信じられないならば不信仰かというとそうではない。
自分の寿命を決定されたのは神であるから、本当の信仰者は、それを自分の運命として受け入れる。
受験や事業で失敗するかもしれないが、最善を尽くして努力して成功しなかったとしても、その結果を受け入れるのが信仰だ。
「勝ち組」「負け組」という言葉がある。
ある人は、クリスチャンは勝ち組にならなければならないという。
経済的・社会的に成功すべきだと。
それは信仰とは関係ない。
なぜならば、イルミナティが支配している社会の中で成功した人は、それなりの犠牲を払うからである。どういう犠牲かというと永遠の地獄である。
もちろん、神がイルミナティによる呪いをかいくぐって成功に導いてくださるかもしれないが、それは、祝福として受け入れるべきだ。
しかし、イルミナティが支配している今の世界でまともなことをやって成功することは難しい。
魂を売るしかないように思える。
だから、この世界で成功するとか、勝ち組になるとかは、非常に愚かなこだわりである。
われわれは、自分の周りはすべて水槽だと思ったらいい。
ぐるりと水槽に取り囲まれている。その中には派手な魚もいれば、鮫のような獰猛な魚もいる。しかし、どんなに力が強くても、われわれのところには来ない。
われわれも向こうには行けない。魚の生活は、魚の生活である。われわれの生活はわれわれの生活。
互いに何も関係ない。
向こうは見えるし、向こうからこちらも見える。
だから何?
関係ない。
自分もあの魚のようにきらびやかな格好がしたいと思って入っても無駄である。ずぶぬれになるだけだ。
私は、長い体験から、神以外のいかなるものも自分にとって関係がないと悟った。
自分がものすごい貧乏になったとしても、必ず助けが来る。
周りが自分のことを評価しても、その評価は自分にとってまったく関係がない。水槽の魚がこちらを見て何かパクパク言っているようなものだ。
この世界の成功も失敗も自分の神様のための働きにとっていかなる意味もない。
キリスト教界で出世しようが落伍者の烙印を押されようが、インターネットで偽神学者と呼ばれようがなんと評価されようが関係がない。
クリスチャンにとって成功とは、神との個人的な関係で測るべきものであって、他人はまったく関係ないのだ。