ミレニアム通信過去情報
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今の教会を支配している悪魔の教え
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1:tomi
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2012/02/22 (Wed) 17:44:31
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(1)
ハリウッドの映画には、「遵法者への敵意」がある。
人気を集める主人公は「破天荒」である。
「異性にだらしがないが、友情に熱い、正義のために敵と戦う」というのが人気がある。
『カッコーの巣の上で』の主人公ジャック・ニコルソンが演じた精神病院の患者はそういった人物だった。
それに対して規則に厳しい院長は悪役として描かれた。
『エルサルバドル』の主人公も異性にだらしなく、交通法規を破りまくる破天荒だが、腕のいいジャーナリスト。
われわれは、小さいころからこういう映画の影響を強く受けている。
「法を守る」ことよりも破るほうをかっこいいと考えるように誘導されている。
悪魔崇拝者アリスター・クロウリーの教え:
1.汝の欲するところをなせ。
2.愛は最高の法である。
3.すべての人はスターである。
映画を通して、音楽を通して、このアリスター・クロウリーの教えによってわれわれは洗脳されてきた。
だから、同じことを教えるディスペンセーショナリズムにすんなり同化したのである。
今教会において法について語ると、ものすごい攻撃を受けるだろう。
法とか契約というと「神様はそんな冷たいお方ではありません!」とヒステリックな反応が返ってくる。
教会は、アリスター・クロウリー化した。
(2)
メディアの影響で注意しなければならないのは、「デウス・エクス・マキーナ」である。
これは、機械仕掛けで登場する神という古代ギリシアの演劇の手法である。
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由来はギリシア語の apo mekhanes theosからのラテン語訳で、古代ギリシアの演劇において、劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、絶対的な力を持つ神が現れ、混乱した状況に解決を下して物語を収束させるという手法を指した。悲劇にしばしば登場し、特に盛期以降の悲劇で多く用いられる。アテナイでは紀元前5世紀半ばから用いられた。特にエウリピデスが好んだ手法としても知られる。
エクス・マーキナー(機械によって)とは、この場面において神を演じる役者がクレーンのような仕掛けで舞台(オルケストラ)上に登場し、このからくりが「機械仕掛け」と呼ばれたことによる。由来は、「機械仕掛けで登場する神」ないし、舞台装置としての解決に導く神そのものが機械仕掛けであることとも解される。日本語で思いがけない展開を指す「どんでん返し」(歌舞伎において、大道具の背景を倒し、瞬時に場面転換する「強盗返」から来た)あるいは「超展開」とも発想は類似している。井上勇は創元推理文庫のヴァン・ダイン『ベンスン殺人事件』で、「時の氏神」と意訳している。
(Wikipedia)
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われわれは、子供のころからウルトラマンなどヒーローものに慣れている。ドラえもんなどは、その典型だろう。
「困ったらあの人に登場してもらおう」「こうなったらいいなあ。あ、あれを出そう!」
こういうヒーローものやドラえもんなどで思考の訓練をされると、努力をせずに神的力に頼る間違った発想が身に付く。
今のディスペンセーショナリズムの「キリストの再臨」などは「デウス・エクス・マキーナ」の典型である。
「やっても無駄だ。この世界はサタンのものだから。キリストの再臨によってすべてを解決してもらおう」
こういう他人任せは、ドラえもんですら否定されている。
最後は、そういう解決法が失敗するというオチで終わる。
聖書は、他人任せの解決法は間違いだという。
聖書の戒めは、「六日働いてすべての仕事をしなさい」である。
「黙って待っていればいいのだ」ではない。
人間の側で最善を尽くせと。
イエスは「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか」(ルカ14・28)と言われた。
人間の側で合理的な計画を立てろと。
信仰とは、われわれの側の努力をやめることではない。
われわれの側で最善を尽くすことが信仰だ。
できるだけ知恵を絞り、合理性を追求するべきだ。
そういう努力を積み上げて最後に「神に信頼する」。
「6日働いて1日休め」との戒めは、
「人間の側で最善を尽くし、最後は神の決定を待て」と同義である。
(3)
今の教会はディスペンセーショナリズムの影響を受けているため、次の2つの点でサタンの思想に汚染されている。
1.法への敵意
2.労働への敵意
この2つのゆえに、今のクリスチャン文化とは、文化ではなく、反文化である。自殺の文化だ。何も有意義なものを生産できない。
こういった間違った教えを捨てて、正しい聖書的な教えを採用すべきだ。