ミレニアム通信過去情報
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宗教を馬鹿にすることは絶対にできない
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1:tomi
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2011/09/22 (Thu) 08:37:45
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現代人は、宗教を馬鹿にする傾向があるが、それは間違いである。
科学の限界は、科学自身に内在している。
科学は、データがすべてといっていい。
データを集めて、そこから規則性を導き出す。
データなしに何かを言うことはできない。
宗教ではないから。
宗教は、まずドグマ(教え)がある。
そして、そのドグマを各分野に適用していく。
たとえば、神は世界を創造された、というドグマがある。
「だから、われわれは、神の御心にしたがって世界を統治しなければならない」という適用がなされる。
これは、演繹的認識の方法であって、科学の方法ではない。
科学はこのように知識を得てはならない。
科学において、「○○教授はこういっておられる。だから、これは絶対に正しい」というような方法は間違い。
「○○教授はこういっておられる。だから、彼の意見を参考にしてみよう」は正しい。
ある人の意見は、参考にはできるが、絶対化はできない。
必ず、実際のデータを取って、それで法則性を導き出し、それに異なる数値を当てはめて実際の観察値と比較し、検証する。
科学の方法とは、このように帰納法的でなければならない。
しかし、様々な側面を持つ人間生活は、帰納法的方法では間に合わない。
たとえば、会社の面接で個性を判断するには、それでは間に合わない。
A君とB君の個性を比較する場合に、A君とB君の皮膚のサンプルを採取して、それを分析して化学的組成を調べてもそれだけの知識である。
いくら行動パターンのデータを集めて、それから性格を分析してもそれだけの知識である。
その人の仕事や社会生活に関する能力を調べるには、総合的理解がどうしても必要である。
つまり、化学的組成に関する知識、性格に関する知識などを総合して結論を出すしかない。
しかし、この「総合」は、直感に基づく。
直感的認識は、科学の論証的認識とは異なるので、総合は、科学ではない。
人間は、帰納法的認識方法だけでは、生活を営むことはできないので、科学だけでは足りない。
だから、「僕は宗教は信じない。科学だけを信用する」ということはできない。
科学だけを信用するならば、人を会社に採用したり、結婚相手を見つけることもできない。
人間は、科学的知識を利用しつつ、自分の世界観で生きている。
宗教も世界観である。
世界観は、存在論、認識論、倫理から構成される。
われわれは、「なぜ物事は存在するのか。どうやって知識を得るか。何が正しくて何が悪か。」ということに関して意見を持っている。
その、それぞれの世界観に基づいて、様々な知識を総合し、判断しながら生活している。
その意味で、宗教家ではない人間は、一人もいない。
科学だけでやっていける人間は、一人もいない。
真理というものを、円形のチーズにたとえると、科学的認識論だけに頼る人は、無数の穴を開けるが、全体を食べられない人に似ている。
経験に基づく知識は、互いに関連性のない個別の知識にとどまる。
円形のチーズをすべて食べるには、個々の科学的知識を道具として用いながら、世界観によって総合を行う必要がある。
このように、帰納法的認識論と演繹的認識論を組み合わせて知識ははじめて得られるのであるから、われわれは宗教を馬鹿にすることは絶対にできない。