ミレニアム通信過去情報
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いつも神に伺いを立てるべきだ
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1:tomi
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2011/12/02 (Fri) 06:10:25
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モーセは、イスラエルが反逆したときに、すぐに神の会見の幕屋に行って伺いを立てた。
「イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。
なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」
そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」そこで、モーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会の集まっている前でひれ伏した。」(民数記20・3-6)
問題が起きたときに、問題を起こした相手にすぐに出向くと失敗する。
問題が起きたら、主のもとに進み出てひれ伏すことである。
サタンは相手の存在を大きく見せてくる。
すぐにでも相手と向き合わなければならないと誘惑してくる。
それが罠なのである。
すべての事柄においてわれわれにとって神が主なのである。
だから、「主に伺いをたてなければならない」。
主権は主にある。だから、その主権に従うためにわれわれには報告義務、指示への服従義務がある。
会社において、平社員は、すべてについて課長または上司に指示を仰がねばならない。
勝手にやっては組織が成り立たない。
ばらばらに行動することによって、組織に非効率と損失が生まれる。
もしわれわれが神の主権のもとにあるならば、すべてについて伺いを立てるべきである。
伺いを立てずにことを実行したいのは、自分が王様になりたいからである。
神の意見など聞きたくないと思っているからである。
だから、失敗する。
神の指示を待ち、従えば成功する。
自分で決定し、行動することによって神の指示によらないために神は手をお貸しにならない。
神のバックアップがないのに行動すれば、破滅は避けられない。
モーセは、一度だけ伺いを立てずに行動した。
「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。・・・そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」(民数記20・8-12)
一見問題がないようだが、モーセの失敗が見える。
「この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか」という言葉。
「私たちがあなたがたのために」!!
裁きの権能があたかも自分に固有のものであるかの言葉である。
神様からゆだねられたものであるのもを自分のものであるかのように錯覚した言葉である。
モーセは、神を介せず、直接民に向き合ったのである。
われわれも問題が生じた場合、問題と直接向き合いがちである。
とくに口論になるとその傾向がある。
相手の言葉にすぐに反応する。サタンがしめしめと利用する。言葉を利用してサタンは分裂させようと「相手を憤慨させるような」言葉を次々とわれわれの頭に入れてくる。
この時にわれわれは問題と直接向き合うという罪を犯しているのである。そのような罪によって問題はさらに悪化する。
この「直接向き合う」行為を神はどのように見ておられるのだろうか。
「あなたがたはわたしを信ぜず(1)、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった(2)。」
1.不信仰である。
信仰とは、試すことの対立語である。
科学は試す。信仰はご法度である。すべてを疑う。
しかし、神は主権者であり、基準なので、試す対象ではない。
神に対しては信仰しかありえない。
われわれは、神を試すことを許されていない。
信仰とは、相手を主権者と認める行動である。
だから、「○○様に対して疑いをさしはさむとは何事だ」と騒ぐ人は、○○様を神としている。
一切の疑いを許さない権利はもっぱら聖書の神にある。
それ以外がその権利を主張すると偶像礼拝になる。
信仰とは、疑わないことであり、基準であり、前提である。
だから、一切を神を前提として行う責任がわれわれにはある。
つまり、何事も「主の名によって行うこと」である。
主の名によらずに先走ること、僭越であることは不信仰である。
2.神を聖なる者としない。
モーセは、神を聖別しなかった。
怒りにまかせて「あたかも自分が裁きを下すかのようにふるまう」ことは、神を利用することである。
神を裁きの道具にすること。
呪術にはこの要素がある。
呪文を唱えると、神が働く、という信仰は、「神を利用すること」であり、神への恐れから出ていない。
あくまでも、神を主として恐れ、「御心ならば」という気持ちを持つべきだ。
神の利用は冒涜である。冒涜には厳しい罰がある。
(結論)
問題と直面してはならない。いつも神に伺いを立てるべきだ。だから、問題と向き合う場合には、一度神に問題を上げて、神から解決を下し、その問題に対処していただくべきだ。
われわれが行うのではない。神がやってくださる。
このようなお伺いを立てることは、神を主権者として敬うことであり、それはすなわち、信仰であり、聖別である。