ミレニアム通信過去情報 1475452

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欽定訳聖書はフリーメイソンの聖書だったのか?

1:tomi :

2012/01/18 (Wed) 21:18:11


tomomahi様に紹介されたページを翻訳しました。下記参照してください。

ここで分かるのは、欽定訳聖書は、反宗教改革の性質を持っていたということです。

ジュネーブ聖書に載っていたカルヴァンの脚注を消したかった。その脚注を読んだ家臣が自分に対して反逆の心を持つことをジェームズ王1世は恐れたから。

ジェームズ王1世は、王権神授説を信じていたことで有名です。ということは、欽定訳聖書は王権神授説を擁護するための聖書であったということになる。

私は、その英語圏における信頼のゆえに、この聖書をあまりに高く評価しすぎていたと感じています。

さらに、欽定訳聖書の挿絵を掲載した下記リンクの図を見てください。

握手が、全部フリーメイソンのそれです。

翻訳者にフリーメイソンはいなかった、とか、ベーコンは挿絵に関与しただけで本文には関与しなかったとか反論もあるかもしれませんが、しかし、出版者がフリーメイソンを許容したという点は非常に重大なミスです。

もしかして、ジュネーブ聖書の創世記1章1節から46番目の言葉をGodからlightに変えたのもメイソンではなかったか。

そうなると、欽定訳聖書はフリーメイソンの聖書ということになってしまい、ウェストコットとホートのはるか以前からプロテスタントの聖書には悪魔の働きがあったということになってしまいます。

きわめて重大な問題です。

以下、

http://www.brighthub.com/education/languages/articles/2409.aspx 

の翻訳。

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翻訳の影響:ジュネーブ聖書 vs 欽定訳聖書

この記事で、ジュネーブ聖書と欽定訳聖書の翻訳の違いについて見ていきたいと思う。この2つの聖書翻訳がどのように相違するか、そして、なぜ両者の間の相違が1600年代における政治的環境が生み出したものであるか理由が分かるであろう。

聖書の異なる翻訳
異なった翻訳の人気が高まるにつれて、それに対応する文化の推移も変化する。この記事では、ジュネーブ聖書と欽定訳聖書という異なる2つの英語訳聖書に焦点を当ててみたい。


ジュネーブ聖書

1560年版ジュネーブ聖書:翻訳者は以下の通り:Walter Whittingham, Myles Coverdale, Christopher Goodman, Anthony Gilby, Thomas Sampson, William Cole, Thomas Greshop, John Knox。脚注はジャン・カルヴァンによる。ジュネーブ聖書は、イギリスにおいてプロテスタントが迫害された時期にプロテスタントによって翻訳されたため、翻訳者は、スイス・ジュネーブに集まらざるをえず、そこにおいて、翻訳物の出版の手配が行われた。元訳は1560年にジュネーブ出版によって1644年までの間に200部印刷され、それをもとに2つの訳が生まれた。

他にもオランダ、スコットランド、アメリカ、イギリスでも出版され、1575年に1560年版ジュネーブ聖書の出版に至った。1599年に、改訂版が発表され、現在、1599年版ジュネーブ聖書として知られている。その多くはウィリアム・ティンダルとマイルズ・カヴァーデイルの初期の翻訳に多くを依存していたが、ヘブル語の旧約聖書からの直接翻訳したはじめての英語聖書であった。完訳の入手が重要であったため、ジュネーブ聖書はプロテスタント、清教徒及びカルビン主義者が尊重する主要な聖書となった。


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1604年に、イギリス王と聖職者が集まりハンプトン王宮会議が開かれ、一つの決定が下された。聖職者には、コーパス・クリスティ大学長ジョン・レイノルズがいた。聖書の改訂英訳を作るべきだとの意見に参加者は一致した。ティンダルとジュネーブ聖書の両方を土台とする欽定訳聖書を制作するために47人の学者が翻訳を開始した。この新しい翻訳聖書の制作の目的は、1599年版ジュネーブ聖書の利用の廃絶にあった。

1560年版と1599年版のジュネーブ聖書全体に付けられていた脚注は、カトリック教会とすべての支配君主制の権威を疑問視する内容であった。この本文のせいでジェームズ1世の権威に対して臣下たちが疑問の念を抱く恐れがあるということが、王にとって問題であった。ジェームズ1世と英国国教会の宗教的及び政治的見解を代表する統一英訳聖書が必要であった。これこそが、新しい翻訳聖書の制作を後押しした要因であった。最初の欽定訳聖書は1611年に出版され、その後、多くの改訂を繰り返したが、今日標準的英訳聖書としての地位を保っている。


聖書の違い
1599年版ジュネーブ聖書と1611年版欽定訳聖書の違いは明白である。欽定訳聖書は、学習用ガイドとして読者に人気のあった1599年版ジュネーブ聖書の脚注を撤廃した。さらに、1560年版及び1599年版ジュネーブ聖書の旧約は直接ギリシャ語旧約聖書とヘブライ70人訳聖書から翻訳されたが、1611年版欽定訳聖書は、旧約聖書の従来の英訳聖書の編集であった。

プロテスタント宗教改革は、1517年にカトリック教会の改革運動として始まったが、教会と君主政体が支配していた国々においては、政治的反動が生じ、宗教的迫害が発生した。そのため、イギリスでは、ジェームズ王1世が欽定訳聖書の制作を委任した際に、1560年版及び1599年版ジュネーブ聖書の利用を許容する空気はまったく存在しなかった。ジェームズ王1世と英国国教会は、彼らが制作した聖書だけが利用されることを望んでいた。プロテスタントと清教徒は、迫害の地に留まりそこで生活するか、別の国に逃れて新しい生活を始めるかしかなかった。プロテスタント宗教改革支持者の中には、オランダに移住した者もいれば、大西洋を横断してアメリカ植民地に逃れる者もいた。「宗教改革」としても知られているプロテスタントの改革は、ヨーロッパにおいて1648年まで続き、ウェストファーレン和平条約において終結した。
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2:tomi :

2012/01/18 (Wed) 21:22:06


フリーメイソンの握手が現れている欽定訳聖書の挿絵

http://www.cuttingedge.org/news/k1002.cfm

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