ミレニアム通信過去情報
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聖書を読む最低条件
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1:tomi
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2012/04/06 (Fri) 21:33:29
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創世記3章に「われわれに似せて人を作ろう」という箇所は、正統的に「三位一体」を表す。
主語が複数で述語が単数である。
これを、多神教の影響だとか、ミトラ教がどうだとか、「聖書を客観的に読まねばならない」とか、批判がある。
では、尋ねる。
「いったい、客観性とは何か」?
聖書全体では、神は三位一体として啓示されている。
「客観的に見れば」あの箇所を三位一体を表すと解釈しても何も問題はない。
「いや、聖書内証明ではなく、外部証明では、という意味だ」というだろうか。
聖書外証明でなければ「客観的」ではないという証拠は何か。
聖書外の証明によって聖書を解釈することが唯一正しいと考える根拠はどこにあるのか。
考えてほしい。
キリスト教をキリスト教足らしめているものは、「神の啓示は人間理性を超越している」という「啓示宗教」である。
それを「神の啓示よりも人間理性のほうが権威がある」とすれば、「理性宗教」になる。
理性宗教は、キリスト教ではなく、ヒューマニズムである。
なぜならば、どんなに神の啓示があったとしても、人間が証明したものだけが信頼に足るとすれば、「聖書の教えの中でどれを選択するのか権威を持っているのは人間だ」ということになり、その宗教は「人間の教え」になるからだ。
つまり、A、B、C、D…各人それぞれが聖書をはさみで切って、自分の考えを代わりに張り付けてもいいということなのだから、統一した信仰は不可能であり、各人それぞれにそれぞれの神がいて、世界観があるということになる。
これは、ヒューマニズムであって、キリスト教ではない。
聖書は単なる「参考書」である。
逆に、本当のキリスト教とは、「聖書は聖書によって解釈する」という原則を尊重する。
なぜならば、聖書を超える権威は存在しないからだ。
「われわれは、人をわれわれに似せて作ろう」という箇所で、神が複数形になっており、述語が単数形であるというのは、聖書の中から理由を見つけなければならない。
それを「当時の宗教事情」とか「古代人の神観」とかから考えることが許されるならば、聖書を最高権威の座から引きずり下ろすことになる。
そして、「己の考え」を聖書の上に置くことを意味する。
つまり「○○教」の誕生である。(○○に自分の名前を入れる)
聖書を読む最低条件は、「アンダースタンド」である。つまり、下に立つこと。聖書を見上げて、自分はその下に立って、教えを願い求めること。
これができないようならば、いくら聖書を読んでも屁にもならない。
無駄だから、読むのを止めてほしい。